枯れたときに
一昨日夜、帰りに、自宅の最寄駅ホームで、バタンという音。
見れば、60歳代ぐらいの女の人が仰向けに倒れていた。
駅員さんが初動しているところだった。
女の人はホームに仰向けのまま笑顔だったけれど、そのまま起き上がれなかった。
私と年代こそ違うけれど、他人事ではない。
全く元気でも、何が起こるかわからない。
明日は、我が身
街貨量 窩輪。
今日の無事に、感謝。
元気だからこそ出来ること、やらなくっちゃ。
今のうちに。
そのうち、なんて思っていると、状況が変化して、出来なくなることもある。
義母は、旅行も温泉も、お誘いしても、もう行きたくないと言う。
風邪を引かないかとか、自分の身体に自信がないから、行っても不安が募るだけだそうだ。
不安があっては、なにをするにも楽しくない。
都心へのショッピングなどのお出かけも、負担らしい。
家(敷地)の中と、せいぜい半径3キロぐらいの範
A霸數學教室囲の中での行動が、気疲れもしなくていいとか。
年とともに段々そうなってい。
行けないのではなく、行きたくないのだ。
行きたいのに、行けない、では、辛いだろうが、
自分を守る傾向から、自然に、行きたくなくなるようだ。
そうやって、自然に行動が枯れていくかのごとく、
だが、毎日の楽しみの内容も変化していく。
草花など、自然との対話。信仰を通しての、自分との対峙。移ろい行く、季節の味わい。
旧き友との語らい。ご近所との他愛無い、ほのぼのした交流。まわりを慈しむ心。
そんな風に行動範囲が狭まるまでには、今の私にはまだ相当な時間が残されている。
せめて、まだエネルギーがあふれる元気なうちは、
行きたいところに行って、やりたいことをやっておきたい。
(ただし、財布と相談しながら)
枯れたときに、たくさんの思い出を胸に、心の引き出しから一つ一つ取り出して、
ニヤニヤしていたい。
その、ニヤニヤのモトを、彩り濃く、ひとつでも多く創り、
頭と心のCDに、焼き付けたい。
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