枯れたときに

opfj

2015年03月31日 11:54

一昨日夜、帰りに、自宅の最寄駅ホームで、バタンという音。
見れば、60歳代ぐらいの女の人が仰向けに倒れていた。
駅員さんが初動しているところだった。
女の人はホームに仰向けのまま笑顔だったけれど、そのまま起き上がれなかった。
私と年代こそ違うけれど、他人事ではない。
全く元気でも、何が起こるかわからない。
明日は、我が身街貨量 窩輪
今日の無事に、感謝。
元気だからこそ出来ること、やらなくっちゃ。
今のうちに。
そのうち、なんて思っていると、状況が変化して、出来なくなることもある。
義母は、旅行も温泉も、お誘いしても、もう行きたくないと言う。
風邪を引かないかとか、自分の身体に自信がないから、行っても不安が募るだけだそうだ。
不安があっては、なにをするにも楽しくない。
都心へのショッピングなどのお出かけも、負担らしい。
家(敷地)の中と、せいぜい半径3キロぐらいの範A霸數學教室囲の中での行動が、気疲れもしなくていいとか。
年とともに段々そうなってい。
行けないのではなく、行きたくないのだ。
行きたいのに、行けない、では、辛いだろうが、
自分を守る傾向から、自然に、行きたくなくなるようだ。
そうやって、自然に行動が枯れていくかのごとく、
だが、毎日の楽しみの内容も変化していく。
草花など、自然との対話。信仰を通しての、自分との対峙。移ろい行く、季節の味わい。
旧き友との語らい。ご近所との他愛無い、ほのぼのした交流。まわりを慈しむ心。
そんな風に行動範囲が狭まるまでには、今の私にはまだ相当な時間が残されている。
せめて、まだエネルギーがあふれる元気なうちは、
行きたいところに行って、やりたいことをやっておきたい。
(ただし、財布と相談しながら)
枯れたときに、たくさんの思い出を胸に、心の引き出しから一つ一つ取り出して、
ニヤニヤしていたい。
その、ニヤニヤのモトを、彩り濃く、ひとつでも多く創り、
頭と心のCDに、焼き付けたい。

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