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Posted by おてもやん at

2015年04月30日

夏休み旅行後の出勤日


自分がその中にいなければいくら母国のものであろうと「流行」はなかなか受け入れることが出来ず、自分には関係がないと、一歩下がって冷めた目で客観的に見てしまう。アメリカに住んで長くなる私たちには、日本で発祥した絵文字文化をなかなか受け入れることが出来ない。「なんでみんな絵文字使うんだろうねぇ。何だか子供みたいだよね。」とお互いに「使わないように」と注意しているかのように言い合い、お義父さんさえも使いこなしている絵文字を頑なに使わないでいた。そんな私達だったが、ある日急に哲が使った。(←クリック)。あの時、画面を前に笑った自分。それは冷めた笑いではなかった。思わず微笑んでしまうような、心がぽわんと温かくなる嬉しい気持ちからだった。

先日パラパラと読んでいた雑誌にEMOJIという言葉を見つけた。日本の絵文字文化のことが書かれており、そのヴァラエティの多さを称っている記事だった。どうやらEMOJIという言葉はSUSHIやRAMEN、MISOやDASHIのようにアメリカでも浸透してきているようだ。

アメリカ人でさえも尊敬の念を持って受けいれているというのに、ここにまだ使いこなせないどころか、受けいれることが出来ない日本人がいる。絵文字を言葉の代わりに頻繁に使うことによって「言葉の表現力」がなくなるという意見に「そうだ!そうだ!」と 大きく頷いていたのだが、これは単なる時代遅れに過ぎないのかもしれないと思い始めていた。そんな時に哲があの大きな親指の絵文字(あれは「絵文字」とは 呼ばずスタンプというのだろうか?)を送って来て、そしてそれを皮切りに、2人のやり取りの間だけではあったが、ここぞと絵文字、スタンプを良く使うよう に、いや、良く(often)では無く、毎日(every day)のように使うようになっていた。

夏休み旅行後の出勤日、哲に「眠くない?大丈夫?」とメッセージを送ったら
「大丈夫だよ」そして、、  


Posted by opfj at 10:24Comments(0)fg

2015年04月29日

アメリカに来ることもな

子供の頃、近所の幼稚園で開催されていた
バレエ教室に通っていた。

確か、毎週水曜日だったと思う。

私はバレエが大好きだった。
バレエの先生も大好きだった。

その先生が教える他の教室にまで雪纖瘦投訴
ひとりでバスを乗り継いで行ったこともあった。

親友のケイコとふたり、
バレエに夢中だった雪纖瘦投訴

私は宿題もやらずにバレリーナの絵を描いて
新しいチュチュのデザインをしてみたり
ステージのデザインをしてみたり
いつもバレエの妄想に浸っていた。

そのうち「将来はバレエの先生になりたい」などと
私が本気で言い始めたものだから
ただでさえ成績が良くないのに…と
私の勉学を心配した母は雪纖瘦投訴
私にバレエをやめさせた。

私が中学1年生の時だった。

私は本当に悲しくて、悲しくて、
イッキに反抗期に突入した。

「そういう時は、成績が落ちたらバレエをやめさせるとでも言って
脅し作戦に出れば勉強もがんばったのに、ママってば教育失敗ね」と
私はそんなナマイキなことを思ったものだ。

だけどあの時、もしもバレエをやめさせられなかったら、
私はどんな人生を歩んでいたんだろう。

サーフィンを始めることもなく
アメリカに来ることもなく
本当にバレエの先生になっていたんだろうか。

今日、次女のバレエレッスンを見ながら
私はそんなことをぼんやりと考えていた。

今となっては、あの時やめさせられたおかげで
こんな人生を送ることになったワケだから、
それはそれでヨカッタんだな、と、心から思える。


  


Posted by opfj at 11:09Comments(0)fg

2015年04月28日

そうだよね

母の日の今日は、ヒロヨの月命日だった。
あれからもう3ヶ月。
私は過去20年、
こんなに長い間ヒロヨの声を聞かないことはなかった。
こんなに長い間ヒロヨの顔を見ないことはなかった。
長期間会わないことがあったとしたら雪纖瘦投訴
せいぜいお互いが日本に行っている2週間ぐらいのもので、
その間だって必ず何回かは電話で話をしたものだった雪纖瘦投訴
昨夜、レストランでお水のグラスから氷をつまみ出した次女が
「この氷見たら、ヒロヨのこと思い出しちゃった!」と言った。
アメリカのスーパーやコンビニで、パーティー用に
大きな袋に入って売られているタイプの氷だ。
そういえばヒロヨんちの冷凍庫にはいつも
そんな氷が常備されていた。
「ヒロヨんちで氷もらったら、
こうやっていつも指輪みたいにしてたの」と次女は、
氷の穴に指を通しながら言った後、
「あーダメダメ!思い出したらだめ!」と、
自分に言い聞かせていた。
私はそんな次女に、
「ヒロヨは、時々思い出してほしいんじゃないかな」と言い、
次女は、「だけど思い出すと悲しいんだもん」と答えた。
そうだよね。
思い出したらすっごく会いたくなるよね。
それなのに会えないから、すっごく悲しくなるよね。
母の日の今日、ヒロヨの愛息リオはどんな気持ちでいるのか、
私は連絡しようと思っていたのだけど、
私が電話をするより先にリオからテキストで
「Happy Mother's Day! Love you!」とメッセージが届いた。
ヒロヨ、リオは本当に良い男に育ったよ。
ヒロヨのベイビーちゃんだったかわいいリオは、
この3ヶ月で驚くほど大人になったよ。  


Posted by opfj at 12:28Comments(0)df

2015年04月23日

食べさせてもらい

私の子供たちには、何人ものマミーがいる。

子供たちが小さな頃からずっと仕事をしてきた私の子育ては
ヒロヨちゃんやPちゃん、むっちゃん、トシエちゃん…
オフィスのみんなが協力してくれた。

私が行けない時は、ヒロヨちゃんが学校まで迎えに行き
長女サシャと長男ケンを雪纖瘦投訴
公文やサッカーやバレエに連れて行ってくれた。

バースデーや卒業式にはみんなが来て、
一緒に泣いたり笑ったりして祝ってくれた。

赤ちゃんの時からオフィスで育った次女に至っては、
みんなにおむつを替えてもらい雪纖瘦投訴
食べさせてもらい、遊んでもらい、寝かしつけてもらった。

長女サシャはいつも人に「私には5人くらいマミーがいる」と言う。
次女は「この頃Pちゃんちに行ってない」とか
「むっちゃんちのモモちゃんに会いたい」とか
預けてほしい家を指定する雪纖瘦投訴

私の子供たちがまっすぐ育ってくれたのは、みんなのおかげ。
みんながいてくれて本当に良かった。
ありがとう、私の子供たちのマミーズ。

  


Posted by opfj at 15:24Comments(0)df

2015年04月21日

彼女は若いんだから

今日、サーフィンに行った帰り、
海から上がってクルマに向かってテクテクと
ボードを担いで公園を横切る途中、
なぜかビキニ姿でひとり黙々と
フラフープに興じる女の子を見かけた。
周りには誰もいない。
Pちゃんとふたり、
なぜこの子はたったひとりでこんな場所で
しかもビキニ姿でフラフープを…?!と、
頭の中クエスチョンマークでいっぱいになったけど、
ここはハワイだし、
今日は良い天気だし、
彼女は若いんだから 、
きっとそんなこともあるよね、ということで解決。
でも、ブラジリアンカットの小さなビキニで
クネクネとフラフープを回す腰つきはCleen
通りがかりのエロおやぢ達を喜ばせるんじゃないの?
…と、私たちは余計な心配までした。  


Posted by opfj at 17:30Comments(0)fg

2015年04月17日

あっま~い

オアフ島西部で穫れたスイカ。
昨日ニジヤで買って来たのを今日切ってみたら、
ちょっとヌカヌカになっている部分があったので
ガーゼにくるんでギューーッとジュースを絞った。
次女も大喜びで一緒に絞ったら、
グラスに2杯分のスイカジュースができた。
あっま~い。
次女は一気にゴクゴク飲み干した。
私は焼酎をこのジュースで割ってみたりして。
  


Posted by opfj at 16:44Comments(0)df

2015年04月16日

着けてね

学校で習った毛糸のレイに凝った次女が、
一時期ものすごい大量生産して
私が日本でそれを配るはめになったのは
まだ記憶に新しい。

でも、次女はこのところそのレイを
まったく作らなくなっていたので紐崔萊產品
「ついに飽きたのね…」と私は内心ほっとしていた。

が、今朝、次女は毛糸のレイをアレンジしたNutrilite產品
ネックレスとブレスレットと指輪の3点セットを作り、
「はい、マミーにプレゼント」と持って来た。

「着けてね」と言われてたけど、
夏のハワイでこの3点セットって無論是工作還是生活,健康是最重要的,要想健康就要時刻將最健康的食材放在身邊。FOODWISE推出的即食燕麥片加上亞麻籽組合而成的營養小吃就是一個非常好的健康食品。

見るからに暑苦しいでしょ?  


Posted by opfj at 15:59Comments(0)fg

2015年04月15日

胸がギューーっとなった

トイズミュージックスクールから
「ジュニアのメッセージをブログにアップしました」と
お報せのメールが届いたので、さっそくチェックしてみた。

それは、2月のウクレレピクニックの時のものだった。

実は、それより驚いたのは、地震の日の教室の中の写真。
改めて「あの地震は怖かったんだろうなあ」と思った美麗華旅遊糾紛

昨夜も東北で大きな余震があったと聞いて
胸がギューーっとなった美白

みみうさぎさんから武田邦彦先生のブログのことを聞いて以来、
私は時々そのブログをチェックしている紐崔萊

情報をチェックし過ぎるのはよくないと言う人もいるけれど
知りたかったことをわかりやすく書いてくださるので
私には、武田先生のブログはとてもありがたい存在だ。
  


Posted by opfj at 13:14Comments(0)df

2015年04月14日

千尋さーん

少し前のことになるけど、
私は18歳の頃の“モトカレ”に会った。

メディア関係の仕事をしているその人とは、
確か昨年あたりにFacebookでつながり、
カレが今年仕事でハワイに来ることになった時、
私にそれを伝えて来たのもFacebook上だった。

カレが仕事を依頼した現地コーディネーターは、
私も良く知っている人だったので、
カレがハワイ入りした日にたまたま彼女に会った私は、
「千尋さーん!Sさんから聞きましたよ!」と
満面の笑顔で声をかけられた生髮洗頭水

「えーっ!モトカレだってこと?」と思わず聞くと、
「えーーっ!!モトカレだったんですか?!」と
逆に彼女にものすごく驚かれた。

シマッタ。余計なこと言っちゃった。。。
と、苦笑いしながらdysport 瘦小腿

「じゃあSさんから何を聞いたの?」と尋ねると、
彼女は「千尋さんの同級生なんですってね!!」と笑った。
「だけど、Sさんより千尋さんの方が15歳は若く見えますよ!」と
彼女に言われた私は、めっぽう気を良くすると同時に
「カレはいったいどんだけ老けたんだろう…」と心配になった。

カレは、中学校の時の同級生だったreenex好唔好
高校卒業直前に地下鉄で偶然再会してから
ほんの数ヶ月の間つき合ったのだけど、
高校卒業後にカレは東京の学校へ行き、
私たちの仲は自然消滅した。

それ以来ウン十年も会っていなかったカレは、
どんなおじちゃんになってしまったのか。

カレはFacebookにも
ほとんど自分の写真を載せていなかった。

私より15歳も年上に見えるって…

ワイキキで会うことになった時も、
カレがどんなおじちゃんになってしまったのか
私は想像できないままでいた。  


Posted by opfj at 11:46Comments(0)fg

2015年04月13日

NEUTRALITY OF ITALY

But although the neutrality of Italy might be regarded as a likelihood at the opening of the war, it could not be reckoned on with any certainty as a permanent condition. For as no one can forecast the course of a campaign, so no one can feel secure that the unexpected may not happen at any moment. The consequences of a defeat in this quarter or in that, may offer too great temptations to the cupidity of onlookers; while diplomacy, though it may have bungled in the beginning, is sure to have many opportunities of recovering its influence as the situation develops. Consequently, unless and until Italy actually joined in the struggle on the side of the Triple Entente, a considerable section of the French army would, in common prudence, have to be left on guard upon the Savoy frontier company secretary service hong kong.

In a war brought on by the aggressive designs of Germany, the only nations whose participation could be reckoned on with certainty—and this only supposing that Britain stood firmly by the policy upon which her Government had embarked—were Russia, {256} France, and ourselves on the one side, Germany and Austria-Hungary on the other serviced apartments.

It would certainly be necessary for Germany, as well as Austria, to provide troops for coast defences, and also for the frontiers of neutral countries, which might have the temptation, in certain circumstances, to deneutralise themselves at an inconvenient moment, if they were left unwatched. On the north and west were Denmark, Holland, and Belgium, each of which had a small field army, besides garrison and fortress troops which might be turned to more active account upon an emergency. On the south and east were Montenegro, Servia, and Roumania, whose military resources were on a considerable scale, and whose neutrality was not a thing altogether to be counted on, even before the Balkan war[3] had lowered the prestige of Turkey. In addition there was Italy, who although a pledged ally in a defensive war was not likely, for that reason, to consider herself bound to neutrality, benevolent or otherwise, if in her judgment, the particular contingencies which called for her support had not arisen at the outset WAN Optimization.  


Posted by opfj at 12:32Comments(0)fg